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モザールの歴史

モザール(MMO)の誕生と歴史

モザールマンドリンオーケストラ(MMO)の設立は、松下電器マンドリンクラブを率いてきた、 故 橋本 等先生が、会社内クラブでは演奏内容の向上に限界を感じ、 広く人材を社会に求めることの出来るクラブを作ろうと決意したことに始まります。

昭和53年10月1日、MMOの結団を中之島中央公会堂において、松下電器マンドリンクラブ、アニママンドリンクラブ、大阪電気通信大学ギターマンドリンクラブ、樟蔭東高校マンドリンクラブのメンバーを中心に集まり行いました。

設立当時は、少人数でもあり、また故 橋本 等先生が手塩にかけて育ててきたメンバーが中心であった為、MMOの良さであるファミリーな雰囲気が自然に作られていきました。練習場所を求めて転々と移動、倉庫をお借りして練習した時代も。どの時代もみんなが協力して素晴らしい活動を展開して来ました。

現在は、特定の出身校に固まることなく、広く人材が集まり、高度な曲にも挑戦出来るようになりました。大阪は西九条にある西九条福祉会館を練習場とし、指導者の無い全て自主運営、アットホームな雰囲気の中で、老若男女が定期演奏会を目標に、愛するマンドリン音楽を楽しく奏でています。

“モザール”と“モーツァルト”(名前の由来)

モザール”とは?言語で書くと“Mozart”。そうです、あの“モーツァルト”の名前なのです。 1978年、故 橋本 等氏を中心にマンドリンオーケストラ結成の為に集まったメンバーで、名前を決める話し合いが行われました。 色々な意見が出ましたが、決定的なのはありませんでした。 この時、初代の部長でありベーストップが決まっていた西田氏から“モザール”にという意見が出、結局それに決まったのです。

では、どうして“モザール”なのでしょうか? 西田氏は、橋本氏からマンドリンの世界へ引き込まれるまで、交響楽団のベース奏者でした。そしてモーツァルトをこよなく愛し、マンドリンの世界にもこの想いをと考えられました。 しかしモーツァルト作品を中心に演奏するオーケストラでもないのに、“モーツァルトマンドリンオーケストラ”では誤解も出るでしょうし、おかしいことから、“Mozart”をフランス語読みの“モザール”としたのです。

出席していたメンバーも“モーツァルト”にこだわらず、“モザール”という言葉から、何故か心地良い響きを感じたということです。もちろん反対意見は一つも有りませんでした。

当時の(現在もでしょうが)マンドリンのグループは、音楽用語や作曲者、マンドリン関係のイタリア語をもじった名前がほとんどでした。その中で、“モザールマンドリンオーケストラ”は全く新しい、そして何かを期待させる響きをもって誕生したのです。

~モザール第13回定演パンフレットより(中村 一氏著)~

大阪のマンドリン界の歴史とモザールの誕生

故 橋本 等先生が“大阪でのマンドリン活動と私”の表題で,年代ごとに大阪のマンドリン界の 歴史~モザールの誕生に至る迄を寄稿されています。 橋本先生の眼を通しての大阪のマンドリン界の歴史が良く分かります。

尚、当原稿は昭和53年に寄稿されたものです。

「大阪でのマンドリン活動と私」橋本 等

昭和21年6月

阪急百貨店の前に立つと見渡す限りの焼野原、難波の高島屋が目の前にあった。 横浜からやってきたマンドリン好きが縁あって旭区赤川のトミタ・マンドリン合奏団の門をくぐった。 過去には富田、石原、月村、縄田と、数多くのマンドリン合奏団があったが、中でも最も古くからあった富田マンドリンが一番活発だったらしく、ラジオでも定期的に放送されていたそうである。

マンドリン音楽の師であるイタリアのR・カラーチェが来日した時、その活躍ぶりに感動し、帰国後、手製のマンドリン二丁を富田夫妻に贈ったという。カラーチェが亡くなった時、NHKラジオから「R・カラーチェの思い出」と題してマンドリン音楽をバックに語られたそうである。 「マンドリン音楽をバックにして放送したのは日本では私が初めてだった。」と、自慢そうに話されたり、「西洋人は身体が大きいが手も大きい。あんな太い指をして小さなマンドリンのハイポジションを譲り合いながら確実に音を出すテクニックには関心させられた。」と話されていた先生がとても懐かしく思い出される。

トミタ合奏団に入部して一番驚いたのはあの戦後の何も無い時代に、メンバー全員がカラーチェの上級クラスの楽器を揃えておられた事、しかもマンドリンだけでなくマンドラ、チェロ、ローネまで総てが最高クラスのものであったことである。なんと関西には金持ちが多いのか、というのが実感であった。 私が横浜時代に師事した高橋八郎氏はヴィナッチァであった。当時(戦後)、関東ではヴィナッチァが圧倒的に多かったと思う。 比留間絹子先生が東京から関西に移られた頃、松下電器に親戚の方がおられた関係で、先生と親しくさせて頂き、松下電器でソロの演奏をして頂いた事もあったが、その時拝見した楽器がやはりヴィナッチァであった。富田先生の説では、カラーチェよりヴィナッチァの方が音色に奥行があるということだった。

昭和22年頃、主催者である富田勇吉先生が亡くなられ、その後を艶子夫人が引き継がれ活動されていた。 私もお蔭を持って昭和23年、合奏団の一員としてNHKラジオで生放送を30分、朝日放送で録音放送を30分と、貴重な体験を持たせて頂き、通常の演奏会とは全く異なる緊張感を味合わせてもらった。 あの当時、まだ26歳位であったが、合奏団に入るなら大きい所、有名な所に入らなければ損だと打算的に考えていたことを思い出す。

昭和32年4月

モザールの前身である松下電器中央研究所マンドリンクラブを、一寸楽しむ位の気持ちで創立させたのがこの頃である。

昭和35年、社内で初めての音楽祭が産経ホールで開催され、我々マンドリンクラブも『トロイカ』を、コーラスと合同で演奏したのが初舞台であったが、かなりの好評であった。 この事があって部員も増え、昭和40年にフェスティバルホールで第9回日本産業音楽祭に、松下電器ナショナルマンドリンクラブとして出演、服部 正の『旅愁による変奏曲』で、優秀賞と職場音楽賞の二つを受賞した。 私達にとって予想もしていなかった事だけにその感激はひとしおであった。幕が下りると同時に、感激のあまり舞台上で全員が拍手をしあって喜んだ事が、今でも目のあたりに浮かんでくる。 当時の産業音楽祭は各ジャンル70数団体が技を競ったが、非常に厳しく、優秀賞と職場音楽賞の二つを合わせて受賞する団体は10団体位しか無かった。 それまで、松下電器からも毎年4団体が出演していたが、8年間何も受賞出来ず、マンドリンクラブが初めて受賞したのである。

その為、一躍社内でも有名になり、当時の社内新聞、月刊誌、社内ニュース(映画)にも取り上げられ、更に本社からの予算も出る様になり、その後の活動が非常にやりやすくなった。そして、それからの12年間に連続して優秀賞を10回、職場音楽賞を8回受賞する事が出来た。最後の10年目のは『劇的序曲』で有終の美を飾ったのである。 自分なりに曲を作り上げ、プロの人達(吉村 一夫、高木 東六、服部 正、長井 斉、野呂 信二郎、朝比奈 隆、山本 直純、大栗 裕、辻井 市太郎、日下部 吉彦)から批評を受けるという、これ程恵まれた環境は無かったと思っている。この期間は私自身にとっても貴重な体験となり、またプラスになった。そして私なりに自身に繋がったように考えている。

昭和39年頃

トミタマンドリン合奏団と現在エルマノマンドリンオーケストラの主催者、木下 正紀氏のグループが合同でオーロラマンドリン合奏団が誕生、大阪で演奏活動をされていたが、2年程で解散した。

それからトミタマンドリンは、昭和43年頃から次第に衰退し、現在では活動が止まっている。 しかし木下氏はその後京都でエルマノマンドリンオーケストラを結成し、現在でもトップクラスの活動をされている。

昭和40年頃

職域のマンドリン活動は黄金時代を迎えていた。

当時マンドリンクラブのあった所は20数社と思えるが、外部に出て活動していたクラブは15社(870名)位<、参考までに述べると、日本生命(125名)、三和銀行(85名)、大阪ガス(60名)、松下電器ナショナル(63名)、住友生命(47名)、三井物産(42名)、住友金属本社(32名)、東京海上(36名)、関西電力(26名)、ダイキン工業堺工場(30名)、東洋紡(40名)、倉敷紡績本社(40名)、三菱商事(25名)、日興証券、大日本紡績貝塚女子、川崎製鉄(25名)、神戸製鋼(54名)、近江兄弟社(63名)、倉紡木曽川工場(82名)

昭和41年頃

大阪電気通信大学ギターマンドリンクラブの中島 良造氏(モザール創立当時の事務局長)が三好楽器より紹介され来社、電通大でマンドリンクラブを作りたいので指導に来て欲しい、と要望を受け再三断っていたが、ついに根負けして指導にいくようになった。 現在までの約20年間、私と電通大メンバーとの付き合いが始まるきっかけになったのである。(昭和53年寄稿時点)

昭和42年頃

三好楽器から紹介された。と、会社まで面会に来た宮崎 輝世という人が「職域によるギターマンドリン音楽愛好会を作りたい。その為、まず松下電器マンドリンクラブが賛同して一緒にやってくれないか」と、話を持ち掛けられた。

幾ら三好楽器さんの紹介とは言え、初対面から突然言われても戸惑うばかり。しかし、二回、三回と熱心に説得してくるその言葉の中に、ひょっとすると大阪でのマンドリン界の発展を純粋に考えているのではと、ついに賛同してしまった。

そして彼を理事長とし、松下電器マンドリンクラブを事務局として『日本ギター・マンドリン音楽振興会』を発足させた。多くの会社のマンドリンクラブが横の連携をとり、助けあいながら良い意味での競争をしていくようにすれば、お互いのレベルの向上につながると共に、大阪でのマンドリン界に少しでも寄与することになると考え、事務局を引き受け、率先してリーダーシップをとっていった。

昭和42年10月

設立記念演奏会を毎日ホールにて開催、職域12団体が参加、盛大に発足させた。

昭和44年からは、毎日チャリティーコンサートをあのフェスティバルホールにて開催。特に45年12月には服部 正氏を迎え、職域13団体350名が参加、あの大きなフェスティバルホールを一杯に、盛大なチャリティーコンサートを開催した。

又、心斎橋のヤマハ楽器のホールを借りて、年に数回、地道に小さな発表会を行い練磨していた。

昭和43年末頃

富田マンドリン門下の人達30名を中心に大阪にマンドリン合奏団を作りたい。と、赤尾 静造氏から協力を求められた。躊躇したが心の中では「この大阪に会社では望めない立派な合奏団が欲しい」と思っていた。 企業内の合奏活動には限界があるし、これ以上の発展を望む事に難しいと以前から考えていた事もあるし、色々な所から色々な経験を持ったベテランが集まってレベルの高い演奏が出来る様になれば松下電器マンドリンクラブにとっても勉強になると共に、向上に繋がると考えた。その上にプロのタクトで演奏が出来れば更にプラスになる事と信じ、率先して協力することにした。

赤尾氏は服部 正先生と親しい関係にあったが、団員が30名程度では大阪まで来てもらえないと考え、松下電器マンドリンクラブから44名(内電通10名)を参加させる事にした。 赤尾氏と二人で、東京原宿の服部先生の自宅まで、指揮者として迎える為のお願いに行き、諒承して頂いた。そして幹部合意の上、大阪マンドリン合奏団(常任指揮:服部 正)と命名、赤尾氏を中心に昭和44年5月、第1回演奏会をもって発足させた。

当時、関西一と噂され会場はいつも満員で、マンドリン界としては不思議な程であった。 しかし問題もあった。それは松下から44名と、過半数以上の人数が参加していた事で、『松下電器』という言葉を大阪マンドリンの中では禁句にし、全体の和と雰囲気に神経を使って行動する様にしていたが、ついに第10回定演を最後に解散となった。

現在では一部の人達が残り、大阪マンドリンソサエティーと名を変え、北尾 幸三氏を指揮者に迎え活動されている。又、共に活動されていた小田 善朗氏は別にエコーマンドリンを創立させたが、現在は小さなアンサンブルとして異色な演奏活動をされている。(注:昭和53年寄稿時点)

昭和45年頃

記憶は確かではないが、この頃に『日本マンドリン連盟』が発足した。 当時、三菱商事の山口 寛氏に「大阪の社会人クラブからは、松下電器の橋本は必ず参加して欲しい。」と一方的に連盟の常任理事にさせられた。幸い、初代支部長は京都の鳥井氏で以前からの知り合いでもあったのだが、ヤマハ楽器での発会式に参加した鳥井支部長、二代事務局長高城氏を通じて何回か、連盟が主催して全国的な合奏コンクールを実施すべきである、と要請、進言した。

昭和50年頃

松下電器マンドリンクラブの若返りを図る為、クラブの部長と指揮を若い人に譲り、私は第一線から身を引き、下手なチェロをぼつぼつ弾きながら、定年後もマンドリンと縁を切らずに楽しもうと考えていた。 しかし、思いもかけずその年13名が退部、その後も次第に部員が減っていく状態が続き、慌てて現役の部長に返り咲き、引き締めにかかったが既に遅く、合奏団はどうにもならない状態であった。

会社内では人数的にも技術的にも今以上を望む事は無理、将来性は期待出来ないと判断し、今ここでクラブの再興を考えるよりは視野を広げ、思い切って外部に人間を求め大きく飛躍しよう、と決心した。

そして昭和53年10月1日、中之島中央公会堂においてモザールマンドリンオーケストラを誕生させたのである。 今まで、他人をあてにして協力してきたマンドリン合奏団をとうとう自分が作る羽目になった・・・・・

以上が私の知る大阪でのマンドリン界の状況である。

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